数年前の秋の終わりごろ、大阪に行ったときのことです。大阪の中心地より北に、一時間弱のところにある箕面(みのお)市へ。箕面の大滝や紅葉の名所として知られ、芸能人など富裕層の邸宅地でも有名です。
山の懐に抱かれる箕面の寒山寺に、江戸時代中期の易者・真勢中州(ませちゅうしゅう・中洲とも)のお墓があると聞いて、気持ちのいい晴天のある日、阪急電車に乗って向かいました。列車がのんびりした駅に到着して、改札を出ると、なにか空気が澄んでいるような気がします。
地元の人曰く、寒山寺はもともと大阪市内にありましたが、都市計画で移転を余儀なくされて、元の地はモータープールになっているとのこと。はて?モータープールとは?あれこれ頭をめぐらせましたが、通訳の大阪出身の家内に尋ねると、大阪特有かな?とくすくす笑って「駐車場」だと説明してくれました。なるほど、車が集り、たまっている場所だからかと納得しました。射覆的な見方をすると、モータープール、駐車場は、☱☱兌為澤と大阪の易者なら、そう読めるかもしれませんね。
さて、その寒山寺が大阪市内から箕面市に移った際に、真勢中州のお墓も移転したそうです。教えられた道順で、小さな川を渡り、少し坂を上って、歩くとほどなく大きなカーブにさしかかったところにお寺はありました。写真のような立派な門構えです。
寒山寺の門前には「眞勢中州先生之墓所」と記された石柱が建っていました。柱の右には「記念生誕満二百年 汎日本易学協会建之」とありまして、おそらく加藤大岳先生筆と思われます。
真勢中州は、江戸時代中期の人で、尾張の国に生まれ、中年から晩年期に大坂淀屋橋の付近に居を構え、易者として活躍されたということです。
加藤大岳先生の説明によりますと、「江戸時代中期以降、易の思想や学問方術を通して、真実の究理に心肝を砕いた先行者として、真勢中州は其の代表的な第一人者であった。真勢中州の業績が殆ど漏れなく今日に伝えられえているのは、松井羅州、谷川竜山などの高弟の力によるものである」とありました。
その後、墓地がひどく荒廃したまま忘れられていたのを、加藤大岳先生の汎日本易学協会が同学同志に呼びかけ、墓地を修復するとともに、加藤大岳先生が施主となり、昭和30年に生誕二百年遺業顕彰の法要もおこなったそうです。この時、公的な大阪府や市、各方面からの賛助もあったといいます。
「地下の真勢中州もさだめし喜んでくれたのではないか」とは加藤大岳先生談。
真勢中州の生涯
真勢中州は弟子たちが、多くの書を残したため、生卦法など現代に使える術もいくつかあります。書には、占例集の様式もあり、米相場占や奉公人の失踪占などもありますが、私は、その中でも、取り違えられた脇差の行方を的占させた占例が好きです。内容は、また機会があるときにお話するとして、さて、真勢中州の流儀では筮前の審事を重要視していますが、中でも『蓍情』という考えがあります。
加藤大岳先生は次のようにおっしゃっています。
『其れ蓍情ということは則ち天命ということなり。と記されているように、立筮という行為は、神明の啓示、天の啓示を求めるために行われるものでありますが、それに感応して、神明の表示されたものが〔蓍情〕である』と。
その〔蓍情〕を知ることが占断に緊要な欠くことのできない大事とされているのです。
真勢中州の功績は偉大ですが、そのまま鵜呑みにはできません。弟子の谷川竜山が「初学の士は妄りに生卦を設くる時は却って迷誤を生ずるの患いあり」という言葉を残されていると、先輩から教わりました。
真勢中州は卦読みで「象」を強く見ていましたので、それにならってみますと、今回の「お墓」といえば、八卦では、☶艮でしょうか。易経にも「廟」や「祀る」という辞句も、いくつか有ります。☱☷澤地萃の彖辞・彖伝には「王有廟に假る」。☳☳震為雷の彖伝では「出でて以て宗廟社稷を守り、以て祭主たるべきなり」。そして、☴☵風水渙の彖辞・彖伝も「王有廟に假る」です。
また、☱☵澤水困では、二爻「享祀」や五爻爻辞に「祭祀するに利ろし」とあります。
どれも内卦、外卦に☶艮は見えませんが、互体などに隠れています。辞をかけた易の作者は本当に、色々と卦象を見ていたのだといつも感服します。
箕面を後にし、晴れやかな気分に満たされた、晩秋でした。(磯部周弦)
日本易学振興協会では、宇澤周峰先生が東京などで易経とともに、本格的な筮竹を使った周易・易占教室を開催しています。主に、三変筮法、六変筮法を中心にした易占法です。詳細はこちらからどうぞ。