早めの夕暮れ時、取引先から直帰しようと怠け癖がでてしまいます。たまには気ままもいいじゃないと、ぶらり上野不忍池へ。上野池之端、弁天様の少し北寄りに、五條天神社はありました。小さいながらも由緒ある神社と知られ、参拝者は多いようでした。
創祀は、古く日本武尊が東夷征伐のため、上野の地を通った時、薬祖神二柱の神様に御加護を頂いたことを感謝なされて、この地に両神を祀ったと書かれていました。
境内には、伊藤博文揮毫の扁額が掲げられています。「神徳惟馨」。こちらは、「しんとく・これかぐわし」と読むそうです。私には理解がおよびませんが、なんだか神の香りを頂ける様な気がします。
この神社は、節分の日に行われる〔うけらの神事〕と呼ばれる豆まきが有名らしく、一年でたまった悪鬼を追い払い、新春を迎える儀式です。平安時代の古式にしたがい、鬼との問答などの神事が行われた後に、豆まきを行います。儀式の間中「うけら」を焚いて、邪気を祓うのだそうです。聞きなれない「うけら」とは、オケラのことで、健胃作用があり、漢方にも使われるキク科の薬草です。無病息災を願い、厄除けの意味があるのでしょう。
その神事のなかでは、蟇目式(ひきめしき)という神弓、神矢で鬼や病霊を祓う儀式があり、宮司様がなさるそうです。
この蟇目式の「蟇目」には、2つ程の説がありました。ひとつは、矢の先につけられた大きな鏑矢に穴があるのですが、その形が蟇蛙(ひきがえる)の目に似たところから蟇目といわれるという説。また、読み方がひびきめ(響目)から来ており、この矢を放つときに「ヒュゥー」と風きり音を発し、その音が陰邪を祓うという説もありました。
私は、後者の説を取りたいと思います。
境内隣に隣接している、弓道場を外からのぞくと練習している人が、シュッと弓を引き、射る音が聞こえると、的に当たったパシッといい音が聞こえてきます。
易占で、的を射るのは、無念無想の状態で、弓道と同じであると宇澤周峰先生より聞いております。易占の専門用語も、占的であったり、射覆も〔射る〕の文字を当てています。そして、矢を射るときの集中力と筮竹を割るときの〔ため〕に似ています。興味があったので、しばし、外から眺めていました。
こちらの五條天神社が、易占と関係あるも、大ありで、加藤大岳先生が五條天神社で易学研究会を開いておられたそうです。客殿や掲額堂をお借りしていたのは、神社の方との親交があったからとの事。その後、易学研究会の会場を上野東京文化会館や湯島聖堂へ移されたとのことでした。
長い長い歴史のなかで少しずつ形を変えて、今こうやって私達は易を学んでいるのだと感じました。
射覆をはじめて当てた、あの日。筮竹を握らずにいられなかった、自分が直面した問題や他人からの悩み相談。なかなか上達しないもどかしさを抱えながらも、必死で宇澤周峰先生や先輩を追いかけてまいりました。時には、自分には向いていないのかもしれないと、辞めようと思ったこともありました。けれども、易占いを嫌いになったことは一度もありませんでした。
弓道は、オイゲン・ヘルゲルというドイツの哲学者が弓道を教わる著書『弓と禅』にもあるように、先生からはすべて教えてもらえるのではなく、自分で体得してこそ、己のものになるといった内容でした。的に向かって矢を射るのですが、的のことは忘れて、力を抜いて矢を放つ瞬間には的に当たった感覚があるということです。
そしてまた、弓矢を忘れるのが、真の〔弓の名人〕の境地だとも聞いたことがあります。よし分かった、理解したとは、どの程度なのか、もちろん日々精進で、終わりのない修業なのだと思います。
こんなことをぼんやり考えながら、不忍池へ降りていくと夕日が池の水面と蓮に照って綺麗に映えていました。しばらく、この魔法にかかっていたい。そんな気持ちにさせてくれた風景でした。
今回は、聖地巡礼のようで、なんだか自分の心の内ばかりを書いてしまいましたが、今年も一年間、最後の最後まで易占コラムをお読みくださり、ありがとうございました。
今年のつらかった事は来年に持ち越さず、今年よりもきっと来年は良い事が起きますように。どうか、よい年をお迎えください。(磯部周弦)
日本易学振興協会では、宇澤周峰先生が東京などで易経とともに、本格的な筮竹を使った周易・易占教室を開催しています。主に、三変筮法、六変筮法を中心にした易占法です。詳細はこちらからどうぞ。
日本易学振興協会へのお問合せは、こちらから日本易学振興協会のサイトの管理運営担当です。まだまだ易占、易学の修行中、精進してまいります。伝統ある筮竹を使う周易を次の時代へつないでいきたいと思います。